この記事の要約
九月半ばの涼しい午後、台所で黒酢を使った煮込み料理を作りながら、自分の味覚の移ろいに気づいた日の出来事を綴りました。かつては避ける傾向にあった複雑な酸味を、いつの間にか心から美味しいと感じるようになっていた小さな驚き。わかりやすい甘さや明るさばかりを求めていた過去を振り返りつつ、酸味や苦味が入り混じった曖昧な状態を、一つの奥行きとして受け入れられるようになった心境の変化を見つめます。
鍋底で丸みを帯びてゆく黒酢の香り
九月も半ばに差し掛かり、開け放した窓から入り込む風に、ほんの少しだけ涼しさが混じるようになりました。夏の間に活躍した扇風機を部屋の隅へ寄せ、そろそろ温かいお茶の準備をしようかと考えるような、季節の変わり目特有の静かな午後。火を使う作業が億劫ではなくなったこともあり、久しぶりに台所に立って、根菜と豚肉の黒酢煮を作ることにしました。

まな板の上で、泥付きのれんこんを少し厚めの輪切りにし、ごぼうは斜めに切り揃えてゆきます。包丁が入るたびに響く小気味よい硬い音が、静まり返った部屋に心地よいリズムを刻んでゆきました。厚手の鍋に少し多めの油をひき、豚肉の表面に焼き色をつけ、そこへ切り分けた根菜たちをざっくりと放り込みます。木べらで全体を大きく混ぜ合わせながら、最後に主役となる黒酢をたっぷりと回し入れました。
鍋肌に黒酢が触れた瞬間、ジュッという音とともに、ツンとした刺激のある香りがふわりと舞い上がります。思わず顔を背けたくなるような、強くて酸っぱい匂い。けれど、弱火に落としてコトコトと煮込んでゆくうちに、その尖った香りは少しずつ角が取れ、やがて甘くまろやかで、どこか懐かしい匂いへと変化してゆきました。食材から出た水分と黒酢が交じり合い、ゆっくりと別のものへ生まれ変わってゆく過程を、コンロの前でただぼんやりと眺める時間が好きです。
いつの間にか移動する好みの境界線
煮汁が半分ほどに減った頃、小皿にほんの少しだけすくい取り、そっと味見をしてみます。口の中に広がるのは、ただ甘いだけではない、複雑で奥深い酸味でした。お肉の脂の甘みと、根菜が持つ土の風味、そして黒酢の酸っぱさが一体となって、喉の奥にじんわりと染み渡ります。その美味しさにほっと息を吐いたとき、ふと、昔の自分ならこの味を好んで作ろうとは思わずにいたことだろうな、という事実に気がつきました。
以前の私は、もっとわかりやすい味付けばかりを選んでいたように振り返ります。甘辛いお醤油の味や、まろやかなクリームの味。酸味や苦味といった、少しクセのある味わいは、なんとなく避ける傾向にありました。食事だけでなく、身の回りのものを選ぶときも同様だった気がします。はっきりとした明るい色、曇りのない透明なガラス、わかりやすい結末の物語。濁りや引っかかりのない、純粋でわかりやすいものこそが良いものだと、無意識のうちに信じ込んでいたふしがあります。
それなのに、今の私はこの黒酢の持つ、一筋縄ではいかない複雑なコクを、心から美味しいと感じるのです。自分の内側にある好きと嫌いの境界線が、知らないうちに静かに書き換えられていたこと。それが誰かに教えられたわけでも、無理に背伸びをしたわけでもなく、ただ時間を重ねる中で自然と変化したことに、小さな驚きと新鮮な喜びを覚えました。
複雑なままで味わうということ
年齢を重ね、いろいろな経験を経てきたからこそ、わかりやすいものだけでは物足りなくなってきたのかもしれません。かつて医療の現場で慌ただしく駆け回っていた頃は、白黒はっきりとした答えや、わかりやすい元気を無意識に求めていた気がします。心身ともに余裕を持てずにいた分、複雑なものをそのままの形で受け止めるだけの余白が、当時の自分には残されておらず、受け止めるのが難しかったのだと振り返ります。

今は、酸味も苦味も、すべてが混ざり合ったままの曖昧な状態を、一つの奥行きとして味わえるようになりました。人の心も、きっと同じなのだと思います。純粋な喜びや前向きな感情だけでなく、そこに少しの迷いや、手放しきれない後悔、言葉にならない違和感が混ざり合うからこそ、その人ならではの固有の風味になる。ツンとした悲しみや怒りも、時間をかけてゆっくりと煮詰めてゆくことで、やがて誰かを温めるような深い優しさに変わってゆくことがあるのだと、今の私なら信じることができます。
誰かの抱える複雑な思いに触れるとき、私はもう、それを無理にわかりやすい形に整えたり、急いで解決へと導いたりしようとは思いません。ただ、その人が持つ酸味や苦味が、その人だけのコクに変わってゆく過程を、同じ空間で静かに見守りたいと願うのです。黒酢の香りが丸くなるのを静かに見届けるように、答えを急がず、ただそばにいることの価値を、少しずつ理解できるようになってきたように感じます。
火を止めた台所に漂う余韻
コンロの火を止め、鍋に蓋をして、味が馴染んでゆく時間に身を委ねます。料理は出来立ての熱々も美味しいけれど、少し冷めてゆく過程でこそ、食材の奥深くまで味が染み込んでゆくものです。そんなゆっくりとした変化を待つ時間も、今の私にとっては心地よいリズムとなりました。
自分の好みが変わってゆくことは、決して過去の自分を否定するものではありません。わかりやすい甘さを求めていたあの頃の自分も、間違いなく私の一部であり、その時期があったからこそ、今の複雑な味わいを楽しめる私がいる。受け入れられる世界の形が、ほんの少しだけ柔らかく、そして広くなった証拠なのだと思います。
すっかり丸くなった黒酢の香りが漂う台所で、窓の外の夕暮れを眺めます。空は青から赤紫へと移ろい、はっきりとした境界線のないグラデーションを描いてゆきます。新しく増えた自分の好きの形を静かに噛み締めながら、明日もまた、誰かの複雑な思いにそっと耳を傾けようと心に決めた、秋の始まりの午後です。
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