この記事の要約
実家から届いた段ボールの底から、中学時代に作っていた科学記事のスクラップブックを見つけました。当時の拙い英語力で書かれた無謀な翻訳と、突拍子もない仮説の数々。専門知識を身につけた今の視点で見直すと、そこには知識不足ゆえの自由な思考の飛躍がありました。正解を知る過程で私たちが手放してしまう「未知へ向かう純粋な熱量」に触れた午後の出来事を綴ります。
段ボールの底で静かに劣化していた、好奇心の塊
秋田の風が少しずつ冷たさを増してきた週末の午後、横浜の実家から送られてきたまま放置していた段ボール箱をようやく開けました。目的は冬物のコートを探すことだったのですが、底の方に無造作に詰め込まれていた数冊の分厚いノートに目が止まりました。表紙には、マジックで乱暴に「Science & Language」と書かれています。中学生の頃、独学で英語を学び始めた私が、海外の科学雑誌から面白そうな記事を切り抜いては貼り付けていたスクラップブックでした。

ページをめくると、切り抜きを留めていたセロハンテープはすっかり茶色く変色し、触れるだけでパリパリと崩れ落ちていきます。その横には、当時の私による青いボールペンの手書きメモがびっしりと書き込まれていました。辞書を引きながら格闘した痕跡が窺える不器用な日本語訳と、それに対する私なりの考察。まだ「なぜ?」という疑問だけで世界と対峙していた頃の、荒削りで熱量の高い好奇心が、劣化した紙の匂いとともに立ち上ってきました。
当時の私は、中学校の科学部に所属しながら、それだけでは飽き足らずに海外の文献に手を出していました。今思えば、基礎知識もない中学生が専門的な科学雑誌を読もうとするなど無謀の極みです。案の定、ノートに残された翻訳の多くは誤訳だらけで、文脈を完全に読み違えている箇所も少なくありません。しかし、ページをめくる手は止まりませんでした。そこには、現在の私が見失いかけていた、ある種の「自由さ」が詰まっていたからです。
誤訳が生み出した、突拍子もない脳のモデル
特に目を引いたのは、初期の人工知能とニューラルネットワークを対象とした記事をまとめたページでした。当時の私は、パーセプトロンや隠れ層といった専門用語を、文字通りの意味で解釈しようと奮闘していたようです。ノートの余白には、脳の働きを説明しようとする手描きの図解がありました。それは驚くべきことに、脳内に無数の小さな図書館員が存在し、彼らが情報の断片を手渡しでリレーしていくという、極めてアナログで奇妙なシステムとして描かれていました。
認知科学とAIを専門とする現在の私からすれば、その解釈は完全に間違っています。情報の伝達を擬人化してしまっている時点で、ネットワークの並列処理の概念を捉え損ねていますし、そもそも電気信号の振る舞いとは全く異なります。しかし、私はその図解を笑うことができませんでした。なぜなら、そこには「分からないものを、手持ちの概念の組み合わせでなんとか説明しようとする」という、人間の認知の根本的なメカニズムが鮮やかに現れていたからです。
圧倒的な知識の欠落を埋めるために、中学生の私は無意識のうちにアナロジー(類推)を駆使していました。図書館員のネットワークという発想は、情報検索と伝達のプロセスをモデル化しようとする、彼なりの仮説だったのです。正しい知識を持っていなかったからこそ、既存の枠に囚われない、突拍子もない飛躍が可能になっていました。その誤訳と勘違いの産物は、学術的な正確さこそ皆無ですが、未知のシステムを理解しようとする思考のプロセスとしては、非常にダイナミックで魅力的なものでした。
しかも、よくよくその図解を眺めてみると、個々の図書館員が独自の判断基準を持ち、相互に影響を与え合いながら全体としてひとつの結論を導き出すという構造になっていました。これは意図せずして、現代のマルチエージェントシステムや群知能の概念に片足を突っ込んでいます。無知ゆえの飛躍が、偶然にも別の真理の輪郭を掠めていたという事実に、私は思わず小さく息を漏らしました。
正解への最短ルートと、失われた探索空間
大学で学位を取り、研究者として専門的な知見を蓄積してきた現在、私は何か新しい論文や概念に出会ったとき、瞬時にそれを既存の知識体系の中に位置づけることができます。これは「こういうモデルの派生だな」「あの理論の応用だな」と、効率的に正解に近い場所へ辿り着くための、洗練された概念の引き出しを獲得した結果です。それは間違いなく成長であり、専門家として不可欠な能力でもあります。

しかし、この古いスクラップブックを眺めていると、AIの学習プロセスにおける「過学習」という言葉が頭をよぎります。機械学習のモデルが訓練データに適合しすぎるあまり、未知のデータに対する柔軟性を失ってしまう現象です。私たち人間もまた、「正しい答え」や「適切なアプローチ」を知るにつれて、思考の探索空間を無意識に狭めてしまうのではないでしょうか。最初から正解がありそうな場所だけを探し、無駄な回り道や、明らかに間違っている仮説を無意識のうちに排除するようになるのです。
中学生の私が描いた「脳内の図書館員」のような、非効率で滑稽な、しかし飛躍の可能性を秘めた仮説を立てることは、今の私にはもう難しいかもしれません。科学の面白さを広める活動をしていると、時折、専門知識を持たない方からハッとさせられるような質問を受けることがあります。それは往々にして、前提知識がないからこそ飛び出してきた、枠外からの問いです。知識の蓄積は視界をクリアにする一方で、暗闇の中で手探りで未知の形を想像する楽しみを、少しずつ奪っていったのかもしれません。
インクの褪せた問いを、新しい本棚へ
気がつけば、窓から差し込む秋の斜光はすっかりオレンジ色に変わり、部屋の温度も少し下がっていました。結局、冬物のコートを探すという当初の目的は完全に忘れ去られ、私の周囲には埃っぽいノートが何冊も散乱しています。淹れたはずのコーヒーはとうに冷めきっていましたが、頭の中には不思議なほどの熱が残っていました。
私は、剥がれ落ちた茶色いセロハンテープの欠片をゴミ箱に払い落とし、青いインクが褪せたノートを丁寧に閉じました。そして、それを再び段ボールの底に戻すのではなく、現在読んでいる最新の認知科学の専門書が並ぶ本棚の一角に、そっと差し込みました。背表紙のない不格好なノートは、整然と並ぶ学術書の中で少し浮いて見えますが、その違和感が今の私には心地よく感じられました。
明日からまた、私は効率的で正確な論理の世界に戻り、研究や執筆を進めていくでしょう。しかし、行き詰まったときや、私自身の思考が小さくまとまってしまったと感じたときは、この本棚の異物を引き抜いてみようと思います。正しい知識では辿り着けない場所へ向かうための、無謀な跳躍力を思い出すために。
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