この記事の要約
AstrumのAI講座の教材を執筆中、ふと手元のメモパッドが細かな条件分岐を描いた巨大なツリー構造で埋め尽くされていることに気づきました。幼い頃から「なぜ?」を要素分解してきた私の癖は、物事を深く理解する武器であると同時に、人に伝える際には足枷にもなります。すべてを網羅したい欲求を手放し、一本の太い道筋を描き直すまでの葛藤と、引き算の難しさを振り返ります。
無意識に増殖するフローチャート
VRM Villageの中央広場で過ごした穏やかな時間の余韻を引きずりながら、自室のデスクに向かっていました。今日はAstrumのAI講座で用いる新しい学習理論の解説資料を執筆する日です。人間の認知発達モデルと、機械学習における最新のアルゴリズムをどのように接続して説明するか。日英両言語でパラレルに構成案を練っているうちに行き詰まり、私はしばらくキーボードから手を離して、窓の外の景色をぼんやりと眺めていました。

ふと視線を落とすと、手元のメモパッドが異様な状態になっていることに気がつきました。そこには、無数の小さな四角形と矢印が這い回るように描かれています。最初は単に二つの概念を比較するための、単純なベン図を描くつもりだったはずです。しかし、いつの間にか細かな条件分岐や例外処理、さらには関連する認知言語学の論文への参照リンクまでが網羅され、メモパッドの余白を埋め尽くす巨大なツリー構造へと変貌していました。
息を詰めてボールペンを走らせ、ミリ単位の微小な文字を四角形の中に書き込んでいる自分に気づき、私は大きく息を吐き出して手を止めました。何かを深く理解しようとする時、あるいは他者に説明しようとする時、無意識のうちにすべてを図式化し、極限まで細部を分解しようとする自分の癖が、またしても暴走していたようです。黒いインクで真っ黒になった紙面を見つめながら、自分の思考の癖の強さに苦笑してしまいました。
模造紙と付箋が育てた分解の習慣
思えば、これは幼い頃からの筋金入りの癖でした。横浜の実家で暮らしていた頃、私はあらゆる現象に対して「なぜ?」と問いかけ続ける、少しばかり周囲を疲れさせる子どもでした。空の色が時間によって変わる理由から、時計の歯車が噛み合う仕組みまで、目に映るすべての構造を知りたがる私に、両親はあきれながらも大きな模造紙を与えてくれました。
壁に貼られたその真っ白な紙に、疑問の構成要素を一つずつ付箋に書いて貼り付け、マジックで線を引きながら階層化していく。その物理的な作業が、私の認知の基盤を作ったのだと思います。複雑で捉えどころのない概念に出会うと、とりあえず要素に切り刻み、変数として並べ直さないと落ち着かない。この「分解癖」は、後に大学でコンピュータサイエンスと認知科学という複数の分野を横断して学ぶ上では、非常に強力な武器になりました。
しかし、世界を常にノードとエッジのネットワークとして捉えようとする視線は、時に物事の全体が持つ柔らかい輪郭を見失わせます。目の前の事象をありのままに受け取る前に、頭の中で分類の引き出しを開け、タグ付けを始めてしまう。そんな自分の思考の癖に直面すると、知的好奇心の旺盛さを誇らしく思う反面、少しだけ窮屈さを感じることもあります。
網羅性への執着と、太い道筋を引く難しさ
科学の面白さを専門外の方にも届けるという私の信条において、この「すべてを分解して網羅しようとする態度」は、時に大きな足枷となります。私が人と話すときに少し早口になり、つい説明が長くなってしまうのも、この頭の中に構築された巨大なツリー構造を、一つ残らず音声として出力しようとしてしまうからです。

目の前にある解説資料の原稿もまさにそうでした。新しい学習理論の画期的な部分を伝えたいだけなのに、過去の理論との微細な差異や、特定条件下でのエラー率の違いまで、すべてを拾い上げようとしていました。結果として出来上がったのは、学術的には正確極まりないものの、初めて学ぶ人を迷子にさせる迷路のような文章です。高校時代、文化祭の科学展示で来場者にまったく意図が伝わらなかった時の、あの苦い記憶がフラッシュバックしました。
秋田の大学にいた頃、地方の科学リテラシーの格差を目の当たりにして痛感したことがあります。専門用語の羅列や複雑すぎる図解は、知識を共有するどころか、むしろ強固な壁を作ってしまうという事実です。本当に伝えるべきは、無数の枝葉の正確さではなく、幹となる一本の太い道筋のはずです。
枝葉を削ぎ落とした画面に残る、小さな疼き
意を決して、私は画面上の細かな注釈や分岐の説明を選択し、デリートキーで消去していきました。代わりに、中心となる概念だけを太い線で繋ぐような、シンプルな構成に書き換えていきます。バックスペースを押すたびに、私が愛着を持っていた複雑な論理展開が削り取られていくのを見るのは、身を切られるような、少し勇気のいる作業でした。
一時間後、すっきりと読みやすくなった解説資料が完成しました。専門的な補足は思い切って削り、誰が読んでも理論の面白さが直感的に伝わる流れに整えました。引き算の編集が成功したことへの確信と、画面に生まれた広々とした余白の美しさに、私はほっと胸を撫で下ろしました。知識を共有するためには、時に自分の執着を手放す必要があるのです。
ただ同時に、切り落とされた細かな条件分岐の美しさや、複雑なものを複雑なまま愛でる楽しさを手放すことに、ほんの少しの疼きを感じている自分もいます。すべてを語り尽くしたいという欲求は、そう簡単には消えてくれないようです。引き算の難しさを噛み締めながら、私はメモパッドに残った緻密なツリー構造だけは捨てる気になれず、そっとデスクの引き出しの奥に滑り込ませました。
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