この記事の要約
毎朝のメイクで使っているチークブラシの柄の塗装が剥げ、下から小さな木目が見えていることに気づきました。それは、札幌のオーディションに落ちて猛特訓を始めた頃に手にした大切な相棒です。最初は硬かった毛先も、今では私の頬のカーブにぴったりと沿うようになりました。すり減った柄を握りしめながら、これからも笑顔を広げていこうと心に誓った一日の気づきを残しておきます。
冷たい水で目覚める朝と、ポーチの中の小さな変化
10月に入り、朝5時の空気がぐっと冷たくなってきました。洗面所の小さな窓から外を覗くと、まだ夜明け前の空は濃い藍色で、遠くにポツンと星が瞬いています。蛇口をひねると、勢いよく流れ出す水も手首がきゅっと引き締まるような鋭い冷たさを帯びていて、北海道の長い冬が一日ごとに近づいているのを感じました。両手ですくった水を顔にパシャパシャと当てると、一気に眠気が吹き飛びます。タオルで水気を拭き取って鏡を見ると、まだどこかぼんやりとした顔がこちらを見つめ返してきます。ここから一日をスタートさせるための準備は、私にとって絶対に欠かせない大切な時間です。

いつものように洗面台の端にメイクポーチを置き、ジッパーを開けて順番に道具を取り出していきます。どれも私と一緒に毎日を過ごしてきた相棒たちです。
- 使い込んでバネが緩んできたシルバーのビューラー
- 何度も落としてケースの角が欠けてしまったフェイスパウダー
- 底の銀色が見え始めたコーラルピンクのアイシャドウ
そんな中、ふと手に取ったチークブラシの柄に、昨日までは気づかなかった違和感を覚えました。
鮮やかなピンク色だったはずの柄の真ん中あたりに、細長い模様が浮かび上がっています。不思議に思って顔を近づけてよく見ると、塗装が擦り切れて、下から素朴な木目が見えていたのです。毎日、鏡の前でギュッと握りしめていたから、ちょうど親指と人差し指が当たる部分だけが綺麗にすり減っていました。ツルツルだった表面に生まれたわずかな木の感触が、なぜかとても愛おしく感じられて、親指の腹で何度もその凹凸を確かめてしまいました。
雪深い町の記憶と、手探りで重ねた色
このブラシが私のポーチにやってきたのは、高校一年生の冬のことです。札幌で開催された大きなオーディションに挑戦して、悔しい結果に終わってしまった帰り道。雪が激しく降る中、駅に向かう足取りは重く、マフラーに顔をうずめてうつむく私に、母が寄り添って歩いてくれました。冷え切った体を温めようと立ち寄った駅ビルの雑貨屋さんで、「アイドルはどんな時も笑顔が一番だよ。これでほっぺを明るくしなさい」とプレゼントしてくれたのが、このピンク色のチークブラシだったのです。
あの頃の私は、メイクのやり方もよく分かっていなくて、ただ見よう見まねで筆を動かしていました。最初は力が入りすぎて、頬の真ん中だけが不自然に濃いおてもやんみたいになってしまったり、焦って粉を落としすぎて顔中がラメだらけになってしまったり。雪深い町の冷たい空気に包まれた部屋で、小さなストーブの前に座り、かじかむ手を温めながら何度もやり直した記憶が、この柄を握るたびに鮮明に蘇ってきます。上手くいかなくて泣きそうになった日もありました。
それでも、毎朝5時に起きてダンスの特訓を始める前、必ずこのブラシで頬に色をのせました。地方に住んでいて現実的じゃないと笑われても、大きな事務所に入っていなくても、鏡の前でとびきりの笑顔を作る瞬間だけは、憧れのキラキラしたステージに立っているような気がしたのです。ただの田舎の高校生だった私に、どんなに苦しい時でも前を向く勇気をくれた、まるで魔法のステッキのような存在でした。
一緒に過ごした時間が作ってくれた、私専用のカーブ
あれから何百回、何千回と頬に丸く色をのせてきました。新しかった頃はまっすぐで硬かった毛先も、毎日使って、週末に丁寧に洗って乾かしてを繰り返すうちに、ふわっと外側に向かって広がっています。ぬるま湯に石鹸を溶かして優しく泡立てて洗い、タオルでそっと水気を取ってから風通しの良い日陰に干す。そんな地道なお手入れの時間が、筆の形をゆっくりと、でも確実に変えていきました。

不思議なことに、その広がった毛先が、今の私が笑ったときに一番高くなる頬のカーブにぴったりと沿ってくれるのです。買ったばかりの頃の既製品だったはずの道具が、私と一緒に過ごした長い時間の中で、私専用の形に進化してくれたのだと気づきました。無理に手首をひねったり力を入れたりしなくても、ふわっと優しく肌に触れるだけで、自然で明るい表情を引き出してくれるのです。
すり減って木目が見えた柄も、不揃いに広がった毛先も、全部が私が夢に向かって休まずに歩いてきた証拠みたいで。ショーケースに並んでいる完璧でピカピカな新品よりも、ずっと価値があるものに思えてきました。親指の腹でその木目をそっとなぞると、カサッとした木の温もりが直接伝わってきて、なんだか心まで満たされていくような安心感に包まれました。
レンズの向こう側と、変わらない温度
今日の午前中は、新しく覚えたアップテンポな曲の振り付け動画を撮影する時間でした。部屋の真ん中に三脚を立てて、スマートフォンの録画ボタンを押して定位置につく。その瞬間、いつもなら「間違えないようにしなきゃ」「もっと綺麗に見せなきゃ」という緊張が走るのですが、今日はなんだかとてもリラックスしていました。朝、木目の見えたブラシでメイクをしたせいか、飾らないありのままの姿でカメラの前に立てている感覚があったのです。
スニーカーが床を擦る音と一緒に、激しいターンをして息が上がっても、前髪が汗で額に張り付いても、そのままの勢いで最後まで踊り切りました。撮影を終えて画面をチェックしてみると、そこには完璧なプロのパフォーマンスとは程遠いかもしれないけれど、心から楽しそうに笑っている私が映っていました。頬にふんわりとのせた色が、汗をかいてほんのり赤らんだ肌と混ざり合って、とても自然で生き生きとした表情を作ってくれていたのです。
動画を公開してしばらくすると、すぐにたくさんの反応が返ってきました。「今日も元気をもらった!」「楽しそうに踊る姿を見るとこっちまで笑顔になる」という声の数々。画面越しであっても、私が心から楽しいと感じている温度は、ちゃんと伝わるんだなと嬉しくなりました。綺麗に見せることよりも、全力で楽しむこと。それが私の一番の武器なのだと、あの時の母の言葉と一緒に、改めて教えてもらったような気がします。
笑っている人のところに夢は来るから
応援してくれるひとたちから届く温かい言葉に触れるたび、母の「笑っている人のところに夢は来る」という言葉が本当なのだと実感します。私が画面の向こうに届ける元気が、めぐりめぐってまた私を笑顔にしてくれる。一人きりで鏡に向かっていた頃には想像もできなかったような、そんな素敵な関係を作れていることが、今の私にとって何よりの宝物です。
今日は夕方にもう一度鏡の前に立ち、いつもより念入りに、頬の一番高いところに色をのせました。鏡の中で笑う私を見て、よし、明日も最高の一日にしようと心が弾みます。このブラシのピンク色の塗装が全部剥がれて、ただの木の棒になってしまう日が来るまで。いや、そうなったとしても、ずっと使い続けたい大切な相棒です。何度洗っても毛先が広がっても、私のお守りとしてポーチの中に居続けてほしいなと思います。
明日もまた朝5時に起きて、このすり減った柄をぎゅっと握ります。そこから生まれる私の笑顔が、世界のどこかにいる誰かの心を、わずかでも明るく照らすことができますように。ポーチのジッパーを閉める音が、いつもより軽やかに部屋に響きました。明日の朝が来るのが、今から楽しみでたまりません。
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